『生きるぼくら』原田マハ著 読了
東山魁夷「緑響く」が表紙とあらば・・・
文庫版の表装には東山魁夷の『緑響く』が清らかに迎えてくれる。
私の足を止めるには、それで十分だ。
ましてや著者が原田マハとくれば、舞台は長野県で、主人公は信濃美術館に勤めている。そして、東山魁夷の「緑響く」をめぐるミステリーだな?とキュレってるのを期待する。
まあまあ、落ち着け私!
キュレって無くても、構わないじゃないかっ。ドキドキ
やっぱり・・・
この『生きているぼくら』は、キュレってなんかいなかった。
なんと、いじめを受けひきこもる24歳の青年がドカンと作品の中心に座っていた。
ひきこもりを引っ張り出す物語
母子家庭で、思春期にいじめを受けひきこもりになった24歳の青年の名前は人生(じんせい)。
(これだけでもう、反マハ体制に突っ込まれそうで背後確認してしまう私)
まあまあ、そう最初っから真っ赤にならずに、名前なんてどってことないのよ・・・
(気になる人は、気になるだろうけど、私的にはマハ慣れしてるもんで気にしな~い)
しかも、この人生は、昼過ぎにお腹すいて目が覚めて、母親が用意したカップ麺とコンビニのおにぎりで空腹を満たして、ネットゲームに明け暮れ、他人のブログに中傷コメントを残して鬱憤を晴らす。脳みそグダグダに蕩けた頃に、寝る・・・
アルバイトを探すわけでもなければ、昼夜働く母親への敬意もへったくれもなく、何様?な暮らしに自分を追い詰めて死んだ魚の目をしている24歳。
う~~~~~ん!
私が母親ならば、自分のほうこそグレて息子を困らせてやるんだが。
母ちゃん、健気というか馬鹿というか・・・
そんな、母ちゃんだけど、やっとこ腰を上げて一通の手紙を残して家を出てしまう。
現金五万円と少しばかりの年賀状。そしていわくつきの梅干しのおにぎり。
年賀状は、誰かを頼れって事なんだけど、そこに「余命数ヶ月」と毛筆で書かれた祖母マーサからの1枚を発見する。
住所は奥蓼科・・・長野県茅野市にある奥蓼科である。
奥蓼科と東山魁夷
おっと!ようやく、表紙の「緑響く」が繋がってくるぞ~。とルンルンと鼻歌♪
だって、この絵は奥蓼科の「御射鹿池」(みしゃかいけ)という灌漑用水湖を描いているのだから。(鹿狩りをした名残の地名らしい)
人生は都会を出て、マーサおばあちゃんの住む田舎を訪ね、自分のこれからを探す旅へと動き出す。
茅野駅に到着し、腹がすいて立ち寄った「めし屋」で出会ったのは人情味溢れるカッコいい大人の志乃さん。
彼女の車で奥蓼科のマーサおばあちゃんの家まで辿り着くことが出来た。
もう、誰かによって自分は生かされている。その始まりのような志乃さんとの出会いの場面ではお醤油と出汁の香りがぷ~んと空腹に染み渡る。
変わった米作り
人生は、蓼科のマーサおばあちゃんともう一人の孫娘である対人恐怖症の「つぼみ」(再婚した父の相手の連れ子)と出会い、一緒に米作りを始める。
米作りといっても、自然の米作りであり、機械や農薬を使わない。
水も張らない。まるで野原で米作りである。
皆には、呆れられるようなマーサおばあさんの米作りだが、物語をリードするのはこの「自然の米作り」なのだ。
稲と一緒に伸びる強い草、秋に枯れてしまい堆肥となる草、雑草とは呼ばないそれらと向かい合い、地中に住む虫の命さえも尊ぶ。
手間を十分にかけて育てる過程こそが「生きるぼくら」なのだ。
ぼくらはみんな生きている
この歌が頭に流れ出して止まらなくなる。
カエルだって、おけらだって、あめんぼだって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ~。
ひきこもりだって、対人恐怖症だって、認知症だって、就職脱落者だって・・・
そんな人間たちが、ともに一緒に育てた自然の米。うまいに決まってる。
もったいなくて、もったいなくて食べれる気がしない。
自分が、その苦労を共に味わっていなければ・・・
「1粒の米には、7人の神様が住んでいるのよ。」
マーサおばあちゃんの言葉がそこかしこで木霊する。
米作りの本ではないが・・・
途中、米作りがしたくなる。
しかし、米作りなどしなくても、作品を読み終わる頃には自分の中の「生きる」糧となる対象への愛情が湧き上がってくる。
夕食に並んだ料理、「ただいま」と帰宅する夫、そして、隣で鼻をほじって宿題をしている娘。
時には、暗闇の中で脅える自分がいて、そこから這い出すには容易な事でない。
世間では、ひきこもりは親も子もしっかりしろ!という突き刺さる視線が向けられ、一層外へ出る勇気なんて出て来やしない。
そんな時には、自然の中で戻ってみたらいいんだ。
田舎のうざったいくらい人情味溢れる人間関係に、足を突っ込んでみるといい。
そんな事すら現実的でない者は、この作品を読めばいい。
「生きるぼくら」
きっと、元気が出て、周りが色鮮やかに見えてくるかもしれないから。